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つぶやき16発目

ある時、東京ノーウ゛イ・レパートリーシアター芸術監督アニシモフは、こんな意味のことを言っていた。

どんなに精巧で愛らしい人形の赤ちゃんだろうと、一番不細工なほんとうの赤ちゃんの魅力に負けるのは、ほんとうの赤ちゃんが生きているからです。
生きているものだけが、あるエネルギーを放射することが出来るのです、と。

僕たちもまた、舞台では生きていたいと思う。
もちろん、これは実に聞こえのいい言葉でどんな劇団でも言われることでしょうが、現実にそれを目にするのは稀なことです。
多くの舞台では、そこに俳優(人形)がいるだけで、生きた人間はいないのである。
俳優の演技は、あまりに、あまりに俳優的であり過ぎる。
俳優は「演技」が大好きだ。
観客もまた、そうした「演技」が大好きだとしたら、それは舞台に生きた人間を期待出来ないからだと思うのです。
演技など終ればいいのだ。
“演技は死んだ!”
気の狂った男が叫ぶ。
“演技は死んだ!”
夜明け。預言。。。

俳優は、再び人間に戻らなければならない。
俳優的行動から人間的行動へというのが、今期によく言われた指示である。
曰く、
「我々は、もう充分に準備してきました。もはや思い切って、舞台で人間に徹して下さい。」

それが僕たちの流儀だ。
しかし、人間に徹するとは何か?
陳腐な言い方をさせてもらえば、いかに心を裸にするか(俳優的衣裳を脱ぐか)、ということだと思います。
まぁ、いろんな理解はあるでしょうが、まず僕はそう受止めました。
裸になるとは、演技の既成概念を捨てることだ。
そして、あくまで自分の名において演じること。
これには、どうにでもなれ!っていうちょっとパンクな気概が必要だったりする(僕はね)。
でも、だからと言って暴力的な、或いは露出狂的なやり方にはならないだろう。
僕らは、もう充分に準備してしまった、のである。

いわば僕らは、台詞という紗幕の裏側でスッポンポンになるのである。
紗幕とは、裏側に光があるとスケスケになる幕のことです。
そうして僕らは、そこで抱き合う(交流する)。
イメージはそんな感じ。
僕らは裸になり子どもとなり驚きイタズラっぽく優しくて大胆で自由にやるだろう。
ここに現われる演技は、どうにも隠しようのないものだ。
アニシモフ曰く、
「120%正直にやる必要があります」
そう、よい表現はいつだって正直なんだ。
正直で開けっぴろげで隠しようがないから、それは不細工で弱さがあり滑稽かも?知れないが、少なくとも真実の相を示してくれよう。
僕らは、人間の真実の生活を生きたいと願っている。
だから、やるしかないだろう。
“たとえ不細工だろうとも……”ね。
(←えーと、これが先週のつぶやきデシタ)

ペンギン

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つぶやき15%

もうタイトルわけわからんね。

先週のつぶやきは、

「自分の演出を見せつけようなんて関心は、
とっくの昔に無くしました」(ア)

です。アニシモフ語録。
こう言ってのける演出家は、あまりいないのではないか?
では彼は、一体何がしたいのだろう。
アニシモフは、だいたい次のように言っています。

私の目的は、作品を活かすことだ。その為に、俳優のやりやすい状況を作る。舞台芸術は、演出家のものでなく、俳優のものだ。

そして、
「私には先生でありたいという欲求があります。
皆さん(俳優達)が舞台上で生きていないのを見ると、私は悲しくなる。
その時、私は自分を悪い演出家(悪い先生)だと感じるのです。」と。

ニクイこと言いますよね。

ペンギン

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第14代つぶやきんぐ

「宮沢賢治は
 カゲキだなぁ」
(田口ランディ)

ランディさんとは、私達のアートサロンにパネラー出演していただいたのが御縁で、親しくさせてもらっています。
「銀河鉄道の夜」も娘さんとご一緒に観劇されていて、その時の感想で、いつか、つぶやいておられたのが今回の言葉です。
つぶやいて、と言っても、そのあとワッハッハというような元気な人ですが…

僕は、このつぶやきに強い印象を受けたのですが、それは、え?というのと、なるほど!というのと二つ思ったからです。

え?というのは、まだ舞台が出来上がったばかりで、作品の客観的な見方を、その時、僕が出来なかったからかも知れない。
なにしろ、僕等は舞台作りにおいて、すべてを自分のもの(正当化)にする必要があったから。
作品がカゲキだとして、少なくとも、自分達をカゲキだと思いつつ提示しても、カゲキだという感想は得られないでしょう。
悪い喩えですが、狂人は自ら狂人だと思わないから狂人なのです、結果的に。

次に、なるほど!というのは、やっぱり賢治はカゲキだと思い当たるところがあったからです。
例えば、「農民芸術概論」という賢治の著作のなかに
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
なんて有名な言葉がありますが、これってかなりカゲキだと思う。
カゲキ過ぎて困ってしまいますが、「銀河鉄道の夜」にも同じようなカゲキさは、たぶん、息づいているのでしょう。
それが舞台から伝わったのだとしたら、大変うれしいことであります。

ところで、こうしたカゲキ(な想いの強)さが伝わるには、ひとつ条件があるようです。

ランディさんが劇団のパンフレットに寄せてくれた「ワーニャ伯父さんの感想」という文章に、まさにそのことが書かれているので引いてみます。
「あからじめ正しい人たちの言葉は、強いけれど消えていく。
弱く愚かな者たちがそれでも善良に生きようと苦悩する姿だけが、私のなにかを突き動かす。」
(ここの一文は、今のチラシにも使わせてもらってます)
そしてこれは、そのまま「銀河鉄道の夜」にも当てはめることが出来ると思うのです。
この作品の主人公は、「弱く愚かな」ジョバンニという少年です。
彼は、反省したり、うじうじしながら、やがてある善良さ(?ある意志)に目覚めていく。

また、こうした主人公を造型してしまうところに、賢治の秘密があるでしょう。
「カゲキ」なひと賢治もまた、「あらかじめ正しい人」ではなかったのである。

さてさてさて、
ここでCMです。

来週土日は
シアターカイ提携公演!
12日銀河鉄道の夜
アフタートーク田口ランディ
13日三人姉妹
アフタートーク立野正裕

まだチケットございます。
お早めに御予約下さいませ。http://www.tokyo-novyi.com/mobile/mobindex.htm

電話0354534945(10ー17)
どうかどうか
見に来て下さい~!

ペンギン

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13日のつぶやき曜日

「三つの在り方しかないのです。
過去にこだわって生きるのか。
現在にこだわって生きるのか。
未来にこだわって生きるのか。」(ア)

劇団の近況について、少し書きます。
芸術監督アニシモフは、すでに三週間以上前に来日していて、レパートリーやスタジオ(設立されました)の稽古などガンガンに働いておられます。
イベントとしては、少し前に劇団京の研究生による最後(閉鎖されます)の卒業公演があり、先日はロシアの歌を楽しむアートサロンを催し、素晴らしいゲストの方々とノーウ゛イ合唱団?と、そしてお集まりいただいた皆さまとで素敵なひと時を過ごしました。

また、引き続きイベントは目白押しでして、
4月6日(日)には「メタカルチャー」をテーマに第3回シンポジウムを。
4月12日(土)に
銀河鉄道の夜、13時より
4月13日(日)に
三人姉妹、13時より
ともに両国シアターカイ劇場にて公演です。
皆さまのおかげで、また両国に登場出来ます。
チラシには12日桜の園とありましたが、銀河鉄道の夜に変更となりましたのでご注意下さい。
また、12日の終演後に作家の田口ランディさんの、13日の終演後に明大教授の立野正裕さんのアフタートークが決定しました!
皆さま、是非是非是非に足をお運び下さいませ~。

さて、つぶやきです。
これは京研究生の卒業公演の打ち上げで、アニシモフが言っていたことです。
二十年も続いた研究生公演の最後ということで、場の空気がちょっと感傷的になっていたところへ述べた言葉です。
続けて曰く
「三つ全部とか、どれか二つを半分ずつとかいうことは無いのです。
だから、どれか一つ選んで下さい」

アニシモフという人は、時に極端な物言いをする。
たぶん、あえて。
それは演出家(または教師)としての言葉の選択だろう。
その言葉は、事実の正しさなどを問うていない。
その言葉は、イマジネーションに賭けられている。

続けて曰く
「私は皆さんには、過去にこだわって生きて欲しくありません。
また、ただ現在のみにこだわってもらいたくもない。
私達は、未来にこだわって生きていきましょう!
カンパーイ!」

アニシモフという人は、ひたすら実践の人である。
アイデンティティーが言葉を選択させるのか、言葉がアイデンティティーを作るのか知らない。
ただ、ふと、僕は俳優の言葉を選択しているかな、なんて思ったりしたのである。

ペンギン

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第十二次つぶやき大戦

「舞台とは、目で聴く音楽なのかも知れない」

先週のつぶやきです。
(ちなみに先々週は、劇団京の研究生の卒業公演があり、レパートリー公演はお休みでしたので、つぶやきもありませんでした。)

第四シーズンが始まってからのレパートリー公演を観ていて、これは音楽だな、と思える時が僕にはあります。
アニシモフはよく
「チェーホフは交響曲だ」
と言っていますが、以前は音楽という感じはあまり受けなかった。
どちらかといえば散文的な印象が強かったんじゃないだろうか。うまく言えないのだが。

では、これは音楽だという(きっとかなり良い上演だろう)時に、僕は何を感じているのか?
それは、たぶん「時間」である。
音楽とは、耳の芸術であると同時に「時間」の芸術でもあります。
音楽芸術で重要なのは、その時間体験だと言える。
そして、俳優が舞台できちんと生きている時、そこにはまた体験すべき時間が生まれているのです。

しかし、舞台で生きるって何だろう?
あえて言えば、誰か(何か)と交流があるってこと。
ちゃんと、いま・そこで誰か(何か)に耳を傾け、感じたり、考えたり、そんな感じ、そんな方向。
すると舞台に「時間」が流れ出す。素敵なことだ。

旋律は、生まれては消えていく。交流もまた、生まれては消えていく。
その言葉にならない「時間」の流れ。
その流れを見つめていると、なぜか人は癒される。
演劇がかけがえのない芸術なのはその時だと思ったりする…なんてね。

もちろん以前にも交流はあったのですが、今期では作品全体のなかで、交流が途切れなくリズムを持ち出したようにみえる時があります。
これは、耳の芸術(こちらは心もと無いですが…)ではなく、時間芸術の意味での音楽性の可能性が開かれてきたってことじゃないか。

誰かが言いました。
すべての芸術は音楽にあこがれる、と。

ま、今回はちょっとした手前ミソな感想でした。

ペンギン