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はむれっとメモ

東京ノーヴイの「ハムレット」が誕生して、二ヶ月程たった。
僕は、12月に一度だけ観劇をさせてもらっている。
いまさらだが、その時の感想をメモしておきたい。

観ていて、まずやって来た印象は、映画的だということ。
映画といっても、僕が連想したのは70年後半から80年代にかけて?の悪夢感の漂うヨーロッパ映画である。
今思えば、映画的なことより、むしろその「悪夢感」的なことの方に何かを感じたのだろう。

「夢の感覚」へのアプローチは、前作「銀河鉄道の夜」でも部分的に試されていたが、
それが全面に、作品を覆って、ひとつの世界を作っていた。
普通、「夢の感覚(世界)」では心が日常とは別様の在り方・働きをしているものだが、その領域だけで、はじめて見えてくる心もあるのかも知れない。
心をテーマとする僕らの劇団(の俳優)にとっては、興味深い対象領域だと思う。

次に、というか、観終わって感じたこと。
この「ハムレット」が、何を語ろうとしているのか、今のところは分からない。
だが全体として、俳優達はよく「生き延びて」いたようだ。
同じ俳優として、敬意を持った。

俳優達は、舞台の上で能らしき所作様式を「強制」されている。
この所作が、僕に「夢の感覚」を感じさせている原因なのだが、ここで俳優達は明らかに困難にぶつかっている。
それは彼らが得意として来た人間的な演技を封じて、彼らをして身体的に「人形」に徹しさせ、彼らの心を抑圧しているのは想像に難くない。

演出上としては、俳優達が所作様式を守ることで、「夢の感覚」の効果を上手く出していたと思う。
よく知られるように、夢のなかでは様々な意味が圧縮されたイメージで表象されたり、時間が存在しないなどするが、能の所作様式がすでに圧縮された表現であり、これを守る俳優達を夢のなかの存在者に仕立てていた。

しかし重要なのは演出効果では、ない。

「ハムレット」とは何か?と聞かれて、「自分自身に打ち勝つことだ」と演出家アニシモフは答えている。
僕は、ほとんど稽古には参加出来なかったので真意は分からないが、だからおそらく能の所作様式は、演出家が俳優達に「あえて」与えた枷なのではないか。
枷が枷でなければ意味がないようなもの。
それで彼らが自分自身を非人間的に抑圧し、それと格闘し打ち勝つことが期待されるようなもの。
そんな風に思えるのだ。

この意味で言うなら、僕が公演を観たかぎりでは、俳優達は何とか「打ち勝って」いた。
つまり、身体的な様式性の抑圧のなかで、辛うじて彼らの心は人間として「生き延びて」いた。
それは僕に、酸素が高圧力下で液体に変わるのを思わせる。
彼らの心もまた、辛うじて存在レベルを変えることで「生き延びる」のである。

最後に「作法」について。
以上のこととも関係しているが「ハムレット」においては、東京ノーウ゛イの俳優達にとって「新しい作法」が求められているようだ。
僕達は、いままでスタニスラフスキー・システムを学びつつ、いわばチェーホフの作法というべきものを身に付けてきた。
だがスタニスラフスキーの大前提は変わらないのだが、やはりチェーホフの作法ではシェイクスピアは演れないのである。
「あなた方は、まだチェーホフを演ろうとしている。しかし、これはシェイクスピアなんです!」とは、何度か参加した稽古で言われていた言葉である。

「作法」とは何か?
僕が個人的に使っている言葉に過ぎないが、ここで言う作法とは、ある作家の作風を表現するための、俳優の「心」の持ちよう(準備・条件)、要するに作品への対し方である。

例えば、チェーホフの作法を僕なりに表現するなら「自分の心と和解すること」である。
これは奇妙な話なのだが、俳優は俳優であるがために自分の心と不仲だったりする。
だが私達の劇団でチェーホフを演じるには「あらかじめ」自分の心とは和解している必要がある(と僕は思っている)のである。

もちろん、近松には近松への、賢治には賢治への作法があるわけだが、ハムレット(シェイクスピア)の作法は、それまでと性格が大きく違うように思える。
僕に言わせれば、上記の「自分自身に打ち勝つこと」こそハムレットの作法なのだが、ここには苦しみ(抑圧)がなければならないからだ。
(心と和解することなどは、たとえ困難ではあっても気分のいいものだ)
「ハムレット」の俳優達は、自ら勝つ為に自ら苦しみ続けなければならない。
願わくば、彼らが「正確に」苦しみ続けますよう。
そのことで、勝利への情熱が増しますよう。

変態の世界である。

ペンギン
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