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つぶやき20粒やで

「人間の巨大さを示せ…」

アニ語録である。
以前に何度か聞いた言葉ですが、ここ最近の『ハムレット』の稽古でも言われた事です。
『ハムレット』の稽古では、人間の巨大さは、人間の「感情」に結び付けられていました。
以下、その「感情」論をまとめてみます。

現代は「感情」の失われた時代である。
「感情」で生きることが、なにか贅沢なことになってしまって、代わりに我々は、知によって生きようとしている。

戯曲というものは、本来、人間/俳優の「感情」の為に書かれたものだが、ここでも、例えば『ハムレット』のような作品は、演出家のアイデア(知)の為にもっぱら上演されている。
現代人には、この「感情」が手に余るかのようである。

現代の問題は何か?
感情と知の分離である。
しかし、元々はそれらは同一のものなのだ。
スタニスラフスキーに言わせれば、「感情」とは一つの考え(知)である。
君達もよく知っているように、考えのない感情は良くないもの(僕らはそれをエモーションの演技として否定します。また、この感情の極端なカタチが所謂“キレる”だろうか、違うかな?)だし、感情のない考えは乾いていて冷たいものだ。
我々は、いわば「頭を心臓に落とす」(ローマの古い格言らしい)ことで、再び「感情」を取り戻さなければならない。
なぜなら、この「感情」にはエネルギー(力)があって、特に舞台でのそれは人間の巨大さを示してくれるからである。

さらに、「感情」の欠如にはイマジネーションの問題が横たわり云々と続くのですが、ちょっとマトメきれないのでこの辺で終わります。
まあ、「感情」論については大筋こんな感じでした。
しかし、、前にも書きましたが『ハムレット』の稽古を受けていると気が狂いそうになる。
この作品の持つ「感情」(考え)は過酷だ。
ホントに舞台化するのだろうか。。

ペンギン
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つぶやき19本目

「祭りから『生活』へ…」

かつては、神になりたい、と願ったものだ。
僕が演劇(役者)を始めたのは、他者になりたかったからです。
とにかく自分以外の誰かになりたかった。
よくある理由だと思う。
だけど僕のなかでは、自分以外の誰か、その最高の他者として“神”になれるという予感がありました。
ハイユウとは、ヒト(人)にアラ(非)ずスグ(優)れる、またはヒト(人)をウレ(憂)うと書いて俳優である、この事実も、僕が人間を超越することを信じさせました。
確かに、僕には神になるという密かな願いがあったのです。
それは不可能な願いだという自覚はありましたが、にもかかわらず、否だからこそ、僕は夢中なのでした。
これはすでに悲劇的な欲望だったとも言えますが、これは別に珍しいことではなく、時として人はそんな欲望をもつということだと思います。

では当時、僕はどんなことをしていたろうか?
世の中は小劇場ブームと言われた頃で、御多分に漏れず、僕も片田舎(学生・アマチュアでした)でその狂騒に身を投じたわけです。
それは時代の空気を反映した終末感と笑いを特徴として(「明るい虚無」などと言われた)、賑やかで、自由さに溢れ、また見掛けによらず切実さのある演劇ブームでしたし、先の僕の欲望を満たしてくれそうにも思えました。
その舞台は、祭りでした。
さて、ブームの是非はともかく、そこで僕のやっていたことは、ひたすら人真似の演技、どこかで観たよな演技を繋ぎ合わせることだったと言えます。
そうしたなかで、僕は二つの背反する経験をすることになりました。
一つは、“誰にでもなれる”という全能感の経験。
舞台でのそれは、ドーパミン出まくりで、何らかのインスピレーションと共に自分など無にしてしまう陶酔体験であり、その時には、或いは自分は神に近いと思ったものです。
けれど正直にいえば、それは実際の舞台でよりも、むしろ観念の世界で多く経験されたと言うべきでしょう。
普段の物思いでこそ“俳優は誰にでもなれる”という全能感は強くやって来たのです。
また、全能感には何故か“救われない”感覚、もしくは“断絶”の感覚がセットになっていて、全能感を補強する役割を果たしていましたが、ここには小劇場ブームの内包する気分が影響していたとだけ指摘しておきたいと思います。
次にもう一つの経験。
“自分でしかありえない”という諦めの経験です。
この前者と反対する感情は、主に演技をするなかで、だんだんと感じられてきたことです。
演じれば演じるほど、他者をめざして自分を相対化すればするほど、ヒョッコリ顔を出す自分というものがあったのです。
僕の目的からすれば、そいつは邪魔者であり、臆病さであり、限界であり、つまり敗北なのでしたが、しかし不思議と惨めさはありませんでした。
僕はただ諦め、受け入れた。
もっと言えば、“自分でしかありえない”という諦めの内から、なにか“根拠”の感覚のようなものを与えられていたのです。
さて、こうして僕の超越の企みは、背反する二つの経験をもたらしたわけですが、僕はどちらかといえば後者の、いわば失敗の方により深い意味を見出すようになりました。
もちろん、僕にある種の才能があり、自分を完全に騙しおおせるほど強ければ、今頃は“虚無の王”ともいうべき神になれたのかも知れませんが、そんなモノにはなれないし、なりたくもないと結局は考えたのだろうと思います。
本当のところ、僕が小劇場ブームという祭りのなかで夢見た超越とは、何だったのでしょうか。
それは、いわば縦への超越だったと言えるでしょう。
今でも、その縦への超越自体には罪は無い(有効)だと思うのですが、当時の僕にはその為に必要な梯子が決定的に欠けていました。
やり方を、何処かひどく間違えていたのである。
僕は敗れました。

そして時は流れました。
かつての超越の欲望も消えて無くなってしまった、という風には、しかし成りませんでした。
それは少し形を変えて、今も僕のなかにあるのです。
祭りは、非日常としての「生活」へと場所を変えました。つまり、東京ノーウ゛イレパートリーシアターでの活動です。
ここでも僕は、変わらず他者になりたい(これがすでに超越です)と願って、俳優を続けている次第です。
しかし、それはもはや神になるのを予感するからではなくなっています。
僕は自分自身に至る、さらには「人間」へと至るのを予感して、これを期待しているのです。
いわば横への超越です。
これでは他者になりたかった男のパラドックスですが、俳優とはそういうものだと今では考えているわけです。

ペンギン

つぶやき18打目

「きみの真実に対する 飢えと愛…」

僕等が舞台において求める真実とは何か?
真実とは、今そこに有るか無いか、どちらかのものである。
勘違いしないでほしいのだが、真実という「モノ」は存在しない。
それは固定した形式を持たないので、何処かには必ずそれがある、というものではない。
では、真実とは出来事、むしろ「コト」の領域にあると言えるだろうか?
こちらは半ば正しい。
半ば、というのは、それが客観的な出来事ではなく、あくまで主観的な出来事だろうからだ。
例えば、戯曲に「ある親が我が子を愛する」という出来事が描かれているとして、これは客観的にはある真理を(または単に事実を)語るコトかも知れないが真実とは関係がなく、ここで問題なのは、その親(俳優)その人のなかに疑い得ない愛情があるかどうかというコトなのです。
僕等の求める真実とは、ある出来事のなかで主観が疑い得ない確信を持つというコトなのだと言える。
アニシモフ曰く、
「真実は俳優のなかにしかない」
だが、いずれにせよ、真実はどんな形式にも収まってくれないので、そのつど生み出される必要があります。

ところで、舞台に立っていて何より面白いのは、この真実の確信に捕らわれる(いや掴むと言うべきだな)時である。
ウソなのにホント。
不思議な感覚である。
そんな時には、自然な(余分な付け足しではなく)即興が生まれたりもして、最高だ。
もちろん正直に言えば、これはスゴく難しいので、いつもその感覚でいられるわけじゃない。
三割越えれば正に高打率かな、今のところは。
でも、この感覚があるから辞められないんです、俳優は。

さてしかし、そうした私(主観)の真実に何の意味があるものかと言われるかも知れません。
だからこの際(めんどうなので)断言しますが、どんな真実も主観の内にしか有り得ないのです。
ということは、その真実の内容までは客体にとって正確には分からないことを意味します。
客体には、主体が真実を持つだろう様子が見えるだけで、もちろん、その様子を通して客体は、主体の真実について色々な確信を抱いたりするでしょうが、しかしより大切なのは、実はその様子自体が与えてくれるある感じだと言えるでしょう。
真実のみが与えてくれるある感じである。
何だか曖昧なことを述べているようですが、例えばアニシモフが「私は真実のもつ率直さ(の感じ)にビックリする」というように、それは真実の性格を示すある感じです。
まあ、見れば分かる、と言ったら乱暴ですが、少なくともそれを目の当たりにすることには芸術的な意味があると思えるのです。

以上。
つまらない話を長々した気がするけども。

ペンギン

テーマ : ひとりごと - ジャンル : 心と身体

つぶやき17弾目

「今週も、下北沢の小さな劇場で、
『あたらしい』受容の試みは
つづいている」

スタニスラフスキー・システムは、近代に登場した普遍性を持つ演技哲学です。
それは他の分野の優れた哲学、例えばニーチェやハイデカーのそれと同じく、充分に理解されているかどうかは別にして、世界に決定的な影響を与えてきました。
アメリカでは、L・ストラスバーグのアクターズ・スタジオによって実践され、ジェームス・ディーンからアル・パチーノまで多くの名優を輩出したことはよく知られています。
ただし、このスタジオの方法論は“メソード演技”と呼ばれ、実際にはスタニスラフスキー・システムの一部分をアメリカナイズしたもので、僕の感じでは人間観がかなり違ったものになっていますが。
また、ヨーロッパの俳優教育でも、スタニスラフスキー・システムは基本であり、いまさら誰も口にしないので、その名前も知らないままにスタニスラフスキーに触れてしまうってくらいの溶け込みようだとか。

で、日本では?、である。
この地では、「いまこそスタニスラフスキー・システムを!」みたいなことが時々言われたりしますが、要するに根付いて来なかった。
ひどい誤解かごく部分的な理解しかされていないのが現状でしょう。
そもそも、メソード演技(日本でも割と人気がある)と同じものだと目されるフシがあるし、一般的な誤解、あるいは批判としては、感情主義的だという意見がある。
その程度の認知度なのである。

しかし、なぜ日本では根付かなかったのか?
これについては、ある年配の劇団OBにこんな話を聞きました。

このロシアでうまれた芸術論は、紹介されるに際して共産主義イデオロギーと結び付いて理解された。
だから本質を見ることなく、世間的には敬遠されてしまったんだ、と。
さもありなん。
悲しいことじゃないですか!

僕ははじめに、スタニスラフスキー・システムは普遍性を持つ演技哲学だと言いました。
その意味は、たまたまロシアでうまれたけれど、およそ(近代において)演じることの考えを深めていけば、誰が何処で考えようが辿り着くような考えだということです。
だからこそ、汎用性があり、ワールドスタンダードであり得るし、もう後戻りも出来ないものなのです。
やっぱり「いまこそスタニスラフスキー・システムを!」なんですっ!

演劇評論家の村井健さんは、次のように話して下さいました。
歌舞伎以後、日本にはスタンダードの演技論は存在しない。
それぞれの劇団が独自な演技論をもつだけの状況である。
これは演劇界にとって不幸な事態だ。
スタニスラフスキー・システムの見直しが必要ではないか、と。

メソード演技と同様で、スタニスラフスキー・システムにも流派(解釈)が様々あるし、こうした俳優教育は同じ方法論でもトレーナー(教師)によって全く違ってしまうものですが、僕等の活動は、アニシモフという教師を通じたスタニスラフスキー・システムの日本への「あたらしい」受容の試みとしてユニークだろうと思います。

今週も、下北沢の小さな劇場で、その試みはつづいています。

ペンギン

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つぶやき16発目

ある時、東京ノーウ゛イ・レパートリーシアター芸術監督アニシモフは、こんな意味のことを言っていた。

どんなに精巧で愛らしい人形の赤ちゃんだろうと、一番不細工なほんとうの赤ちゃんの魅力に負けるのは、ほんとうの赤ちゃんが生きているからです。
生きているものだけが、あるエネルギーを放射することが出来るのです、と。

僕たちもまた、舞台では生きていたいと思う。
もちろん、これは実に聞こえのいい言葉でどんな劇団でも言われることでしょうが、現実にそれを目にするのは稀なことです。
多くの舞台では、そこに俳優(人形)がいるだけで、生きた人間はいないのである。
俳優の演技は、あまりに、あまりに俳優的であり過ぎる。
俳優は「演技」が大好きだ。
観客もまた、そうした「演技」が大好きだとしたら、それは舞台に生きた人間を期待出来ないからだと思うのです。
演技など終ればいいのだ。
“演技は死んだ!”
気の狂った男が叫ぶ。
“演技は死んだ!”
夜明け。預言。。。

俳優は、再び人間に戻らなければならない。
俳優的行動から人間的行動へというのが、今期によく言われた指示である。
曰く、
「我々は、もう充分に準備してきました。もはや思い切って、舞台で人間に徹して下さい。」

それが僕たちの流儀だ。
しかし、人間に徹するとは何か?
陳腐な言い方をさせてもらえば、いかに心を裸にするか(俳優的衣裳を脱ぐか)、ということだと思います。
まぁ、いろんな理解はあるでしょうが、まず僕はそう受止めました。
裸になるとは、演技の既成概念を捨てることだ。
そして、あくまで自分の名において演じること。
これには、どうにでもなれ!っていうちょっとパンクな気概が必要だったりする(僕はね)。
でも、だからと言って暴力的な、或いは露出狂的なやり方にはならないだろう。
僕らは、もう充分に準備してしまった、のである。

いわば僕らは、台詞という紗幕の裏側でスッポンポンになるのである。
紗幕とは、裏側に光があるとスケスケになる幕のことです。
そうして僕らは、そこで抱き合う(交流する)。
イメージはそんな感じ。
僕らは裸になり子どもとなり驚きイタズラっぽく優しくて大胆で自由にやるだろう。
ここに現われる演技は、どうにも隠しようのないものだ。
アニシモフ曰く、
「120%正直にやる必要があります」
そう、よい表現はいつだって正直なんだ。
正直で開けっぴろげで隠しようがないから、それは不細工で弱さがあり滑稽かも?知れないが、少なくとも真実の相を示してくれよう。
僕らは、人間の真実の生活を生きたいと願っている。
だから、やるしかないだろう。
“たとえ不細工だろうとも……”ね。
(←えーと、これが先週のつぶやきデシタ)

ペンギン

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