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第十二次つぶやき大戦

「舞台とは、目で聴く音楽なのかも知れない」

先週のつぶやきです。
(ちなみに先々週は、劇団京の研究生の卒業公演があり、レパートリー公演はお休みでしたので、つぶやきもありませんでした。)

第四シーズンが始まってからのレパートリー公演を観ていて、これは音楽だな、と思える時が僕にはあります。
アニシモフはよく
「チェーホフは交響曲だ」
と言っていますが、以前は音楽という感じはあまり受けなかった。
どちらかといえば散文的な印象が強かったんじゃないだろうか。うまく言えないのだが。

では、これは音楽だという(きっとかなり良い上演だろう)時に、僕は何を感じているのか?
それは、たぶん「時間」である。
音楽とは、耳の芸術であると同時に「時間」の芸術でもあります。
音楽芸術で重要なのは、その時間体験だと言える。
そして、俳優が舞台できちんと生きている時、そこにはまた体験すべき時間が生まれているのです。

しかし、舞台で生きるって何だろう?
あえて言えば、誰か(何か)と交流があるってこと。
ちゃんと、いま・そこで誰か(何か)に耳を傾け、感じたり、考えたり、そんな感じ、そんな方向。
すると舞台に「時間」が流れ出す。素敵なことだ。

旋律は、生まれては消えていく。交流もまた、生まれては消えていく。
その言葉にならない「時間」の流れ。
その流れを見つめていると、なぜか人は癒される。
演劇がかけがえのない芸術なのはその時だと思ったりする…なんてね。

もちろん以前にも交流はあったのですが、今期では作品全体のなかで、交流が途切れなくリズムを持ち出したようにみえる時があります。
これは、耳の芸術(こちらは心もと無いですが…)ではなく、時間芸術の意味での音楽性の可能性が開かれてきたってことじゃないか。

誰かが言いました。
すべての芸術は音楽にあこがれる、と。

ま、今回はちょっとした手前ミソな感想でした。

ペンギン
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つぶやき第十一手

「単純にやると軽くなり、
軽くなると高くなり、
高くなると陽気になるんだよ」
byK氏

今週のつぶやきは、劇団員のK氏の言葉です。
ある時、何気なく述べて曰く
「つまりさ、ペンギン君、
そーゆーコトだと思うんだ。
すごい言葉だよね。」
ええ、すごいのはアナタです…
「四つのより」を「単純に」説明し尽くしている。スゴイです。

今日は、「四つのより」のマトメの回ですが、これまでの僕の書き方では、それぞれの「より」の有機的なつながりまで触れられなかったので、氏の言葉を援用(拝借)して、これまでの僕の説明を補足(こじつけ)してみたい。

では、こじつけます。
まずシーンを理解して潔く単純に演じると…
そこではエゴが軽減され軽くなり…
そのように軽くなると自然に精神性が高くなり…
高まった精神は反転しなければ陽気さに向かう…
と、こんな感じになりますかね。

一応、断って置くと、僕はスタニスラフスキーが実際にはどんな意味で「四つのより」を言っているのか正確には知りません。
たいした知識もなく、ただ、アニシモフの稽古や舞台での体験などから、自分の信じられるコトを書いたに過ぎない。

しかし、初めに演技の極意と書いた手前もあり、僕はあくまで演技論として書いてきましたが、もっと広い意味で考えてみても良かったかも知れません。

実際に、スタニスラフスキー・システムというのは、舞台芸術にとどまらず、広く芸術表現に応用されているものですし、
またまたK氏の言葉を借りれば、それは「人間の才能を最大限に引き出すようなもの」なのです。
根底にしっかりした人間学を持っている故だと思います。

さて、こうして改めて「四つのより」を見てみると、それぞれが別個の方向なのでなく、全部合わせてある方向を持っていることが分ります。
四つで一つの趣味を形成しているのです。
もちろん、人はどんな方向性(趣味)を持とうが自由なので、これが正しいとか絶対だとか言うわけではない。
ただ、やっぱり僕には、スタニスラフスキーという天才が提示した一つの方向性(趣味)として、少なからぬインパクトを受ける。
いまだよく分からぬままに…。
皆さんは、どう思いましたか?
以上。

ペンギン

つぶやき十枚目

「贋物には
楽天性というものはない」
by坂口安吾

「四つのより」の最後、
「より陽気に」を考えます。
ただ、ちょっと気が重い。
お手上げな感じである。
これは簡単に言えば、陽気と陰気の方向性の対立という話になるはずですが、
現状として、普段の僕の陽気さなど「だって笑うしかないだろ」といったもの(分るかな?)であり、ここには随分と陰気さも含まれているのである。
だがまあ、そうした現状を意識しつつ、しかし「より陽気に」のなかに僕はどんな予感を受け取っているのか確認していきたいと思う。

まず、陽気と陰気の対立を、
『スターウォーズ』に当てはめてみましょう。
陽気さが、フォース。
陰気さが、ダークフォース。
どちらの力を使っても演技は出来ます。
しかし、『SW』に描かれるように、フォース(陽気)が反転してダークフォース(陰気)になるのであり、逆ではないことが重要です。
陽気さが正道なのである。
ダークサイドに引き込まれないよう注意しなければならぬ。
ある時、僕が誘惑(?)に負けてダークフォース/陰気な力を使って演じたところ、マスター・アニシモフに
「君の役はモンスターではない」
と言われ、目が覚めたことがある。
どんな陰惨に見える人間(の役)の中にも、陽性の解釈を与えうる一点はあるはずであり、
俳優はそこを足掛りに演じるべきなのだ。
すすんで暗黒面を探し出し、みだりにダークフォースを使うべきではない。
言い換えれば、自分の魂を病気にするような演じ方はすべきでないということだ。
またある時、マスター・アニシモフ曰く
「インスピレーションは、楽天的な(陽気な?)人間にやって来る」と。
もはやリクツもヘッタクレもないようだ。
フォースとともにあらんことを…

変な喩えで、これでは陽気な演技というものがイメージしづらいかも知れません。
でも、これには理由があります。
先週の「より高く」も同じですが、「より陽気に」とは、テクニックの演技訓よりもむしろ精神論(目に見えない部分で)の俳優訓だろうからです。
無論、私達の考えでは、俳優の精神が演技を生むのであり、その意味では、俳優訓は即ち演技訓であるけれど。

さて次に、陽気さの持つ性質を少し見ましょう。
ポイントは、陽気さは他人に及ぶという点です。
ほんとうの陽気さは、他人をも陽気に明るくし、また幸福な気分にするでしょう。
だから、陽気な性格の人は、この性質をよく知っていて、他人がハッピーでなければ我慢ならないので陽気に振舞うところがあるのじゃないか?

いったい人は、どんな時に陽気なのでしょう。
僕などは陽気な性格ではなく、一緒にいてとくに楽しい人間でもないですが、それでも、友人と酔っ払ったり、好きな人といれば気分が上がる。
気分などいい加減なもので、
僕も時に陽気である。
要するに、人は世界を愛し得る時に陽気なのではないか。
愛するものの幸福を願うのが人の自然である。
また、世界を愛し得る者を幸福と呼ぶならば、
陽気さとは幸福の一つの表現であると言えるだろう。

うーん、文章が分かりにくくなっているかも知れませんが、
何を言いたいかというと、
「より陽気に」が僕にはある種の幸福論に思えるということです。
おそらくスタニスラフスキーは、演劇によって人々を幸福にしたいと考えているに違いありませんが、
そのとき「より陽気に」という方向性は不可欠なのだと思います。
そして俳優は、ほんとうの陽気さが他人に及ぶことを理解するなら、
まず自分が幸福でなければならない。
つまり世界(現実)を愛することから始めなければならない。
たぶん、そういうことだ。

以上にします。
しかし、想えば愛については反省の多い我が身である。
まあ、個人的な現状は、多く言わずに置きましょう。
愛(陽気さ)とは、「だって笑うしかないだろ」という諦念からは程遠く、また「それでも笑うんだ」という決意なども越えて、ただ、モノもいわず笑うという楽天性のうちにあるものだろうから。

次週は、一応、まとめと致します。

ペンギン
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