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つぶやき9回裏

「人間の高みを
想え…」

今回は「より高く」の考察。
だが、より高い演技とはナニゴトか?
高質な?これは大事。
高値な?出来るなら。
高貴な?うーん…
高尚な?イヤミかな。
高慢な?高踏的な?高声な?…
高いにも色々ありますが、
このなかでは、実は「高尚」が近い方向性だと思います。

けど、高尚なんて言葉、普段使わないですよね。
稀に、高尚だね、なんて聞けばやっぱりイヤミだろうし、
オレは高尚だ、なんてのは頭がオカシイに決まっている。
それでも、ここではこの方向なのです。
事実、ウチの劇団では頻繁ではないが耳にする言葉なわけで(おそろしいことに?)。

ウチでの「高尚」の使われ方を知る必要がある。
いま辞書(広辞苑第四版)をみると「学問・言行などの程度が高く、上品なこと。」とあるけれど、それと何か関係あるかしらん?
上品?そんなんでない。
別に特殊な使い方をするわけでもないけれど、ちょっと違うのだ。
大雑把に説明してみよう。

こんな風に言えると思う。
例えば『どん底で』のなかで、人間は結局「(人類にとって)よりよきものの為に生きるものだ」ということが語られている。
演ずることも又、つまるところ、その為の営みのひとつですが、
ここにあるのは、真に生きる者に現われてくる精神性の高さだといえます。
私達は、その高さを指して「高尚」と呼ぶのだ、と。
まあ、意味としては妥当ですよね。
でも何となく、まだウサン臭い。精神性が高い?バカ言うな。

ここで一応、先週からに続いて、演技をラブレターに喩えてみましょうか。
「より高く」の場合は、
「愛しています」と一言(単純に軽くね)書く所を
「一発ヤラせて」
とか言っちゃダメ、ということだ。
これでは「低い」…
だがしかし、低くてナニガ悪い、とも言えるだろう。僕の内心の声である。
僕の(われわれの?)現実は、低さをまぬがれないのじゃないか。
またしかし、低くていーのか!?という(これも内心の)声も、もちろんありますけれど。

ではところで、この「高さ」に対する抵抗感って何なのか。
おそらく、「高いモノそのもの」なんて現実に存在しないことに由来しているでしょう。
それが、よりよきものだろうと、いわゆる真善美だろうと、或いは愛だろうと、それ自体は、人間の持ち物では無いのではないか。
言ってみれば、それは神の領域のモノである。
完全性を自称する高さには、気をつけなければならない。
我々に残され手にしているのは、ただ、それらへの「あこがれ」ばかりなのだ。
ならば、つまり(精神性の)「高さ」とは、実質的には、あこがれの高さに他ならない。
不完全性を自認する高さと言っても良い。
我々は地上から、あこがれ求めるだけの生物である。

ずいぶんマワリクドイ言い方をしました。
しかし、ここまで来て僕には「より高く」の方向性が正当化出来る気がするのです。
いざ、あこがれ求めよ。
いまこそ、思い切って「高く」演じるべし。

次に、具体的に「より高く」の内容を見ておきましょう。

どんな登場人物にも、何かしら「高さ」があるものです。
それは、ストーリーの展開やシーンの状況、台詞から察せられるものです。
しかし、これは手掛りに過ぎません。
本質的には、それは隠されているのである。
どういうことか?
俳優の仕事は、役の持つ高さと俳優自身の高さを共有させることですが、
実際の舞台では、俳優の演じ得た高さが、つまりは役の高さです。
俳優は、自ら演じることで役の高さを証明しなければなりません。
だから、低くもなれば高くもなる。
極論すれば、戯曲と無関係な低俗を役に与えることも、戯曲を超えた高さを役に与えることも、ともに可能なのである。
知的に理解され予想される高さと、俳優が生きてしまう高さとは別物なのです。
ここに舞台の醍醐味があるのだし、ここに「より」の差異が言われる理由があるといえるでしょう。

ざっくりですが、以上にします。
長くなりました。

どうぞ又来週。

ペンギン

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つぶやき八の巻

「力(りき)まず、
 さらさらっと…」

今週は、「より軽く」の方向性を考えたい。
思い返すと、今期の稽古は「より軽く」の方向性が大きな指針だったのではないかと思う。
今期では、私達の舞台の質に「軽さ」がはじめて前面に出てきた。
上演時間も短くなった。
それを見て、というか、そうさせてアニシモフは言った。
「飛ぶように演じなければなりません。風のように軽く。
こうして観客は、俳優ではなく作品を感じるようになるのです。」
その辺を足掛かりに、あらためて僕の中では、この方向性がどう理解されているのか明らかにしたいのだ。

まず、それは軽妙さ・軽快さの方向であって軽薄さを意味しないだろう。
では軽妙軽快な演技とは何か?
僕がそれをよく知っているとは言いがたいが、
さしあたって、二つの注意点が挙げられる。
ひとつは緊張しないこと。
緊張は俳優の最大の敵である。
それは彼の心身の反応を鈍くて重いものにするのだ。
スタニスラフスキーは、どんな俳優にも「95%の緊張を切捨てなさい」と言ったという。

次に、見せつけないこと。
もったいぶって、意味ありげに、何かをやろうなんてしないことだ。
でも俳優には常に、自分を印象づけたいという誘惑があるんですね。
先週のラブレターの喩えでいえば、
「愛しています。」
これを血文字で書くようなもの(なのか?)です。送られる相手には、ウザッたくて重いだけだったりする。

さて、二つの注意点を挙げましたが、俳優的緊張にしろ見せつけの演技にしろ、ここにはすでにエゴイズムの問題が顔を覗かせているようです。
俳優を「より重く」してしまうのは、エゴイズムだと言えるのかも知れない。

この問題は、しかし表現者なら誰でも抱える悩みだとも言えます。
もちろん、何をくだらない、つまらぬ悩みだといえばその通りです。
エゴイストをやめれば良いだけなのだから。
しかし人間は(僕は、ことに俳優は?)、なかなかにエゴイストなのだ。
それが実情ではないか。

又、この問題がややこしく感じられるのは、(僕だけかもしれないが)表現の起点としてのエゴが、結局は表現にとって邪魔になってくる点であり、
さらには、そこでエゴを捨てるといっても、それが放棄ではなく、いわば、その乗り超えでなければならないところにある。
それは如何にして可能か?
などと、これ以上の深追いは止めておきましょう。
僕には上手く説明出来そうになく、
愛がどうのと口走ってしまいそうだから。。。

それより、実践です。
ウダウダ考え悩んでも始まらない。
アニシモフ曰く
「舞台では、相手役のことだけ考えなさい」
僕は、そう努めてみる。
少なくとも、いっとき、自分のことは忘れてみる。
すると、まあ不思議。
緊張はほぐれ、見せつけの演技も不要になる。
そのとき、僕は「より軽く」の方向に歩きだすだろう。

以上が、「より軽く」についての僕の私見です。
言うまでもなく、実践は書くようには容易でない。
また、ここでエゴイズムの問題に行当たる(僕には収穫だったけど)のは、どうかと思わなくもない。
まだよく分からないのだ。
別の捉え方も必要だと思う。

最後に、軽薄な演技について触れておこう。
思うに、これはエゴイズムとはまた違った事情から来ています。しかし軽い演技を意識するとき起こりやすい。
軽薄な演技とは何か?
本来、「より軽く」とは戯曲の「重い」内容に「軽い」表現を与えることですが、
軽薄さは、戯曲の「重い」内容を引き下げて「軽い」内容(無内容)にして演じることだと言えます。
僕の考えでは、これはむしろ軽薄さが「より高く」の問題圏に属すことを示しています。

が、それは次週に致します。

ペンギン


ツブヤキセブン

「まず単純に…」

四つのより(単純に・軽く・高く・陽気に)の中でも、この「より単純に」だけは、
よく稽古中にアニシモフが日本語でつぶやいている。
「単純に単純にそう…単純に…」
シーンの内容が俳優に理解されているなら、あとは単純に演じることがもとめられる。

俳優は、とかく複雑になりがちなのだ。余分なものを加えたがる。
余分な手の動き、表情、声の強弱、間、笑いなどなど。
そうしないと演じた気分になれないのだから困ったものだ。

単純に演じることは、ほとんど演じないことに似ている。
シーンの内容を理解さえして(これが大仕事なんだが)いれば、そこに居て、当然のことをやれば良いだけだからだ。
だから、俳優が口にする経験として、舞台で何をしたのかよく覚えてない、ということがあるが、それは素晴らしい演技のとき程そうであるのが事実なのである。
まぁ、よく覚えていない、というのは演技上の反省が、そのとき少ないからかも知れない。

ここで、上手い喩えではないけれど、演技をラブレターだとして
「愛しています。」
この一文だけで終わらせるのが単純な演技であるとしてみましょうか。
これだけでは不安で何かしら書き足したくなっても我慢する。
単純さは、だから潔さだ。
また、不安を持たないためには、書き足しが蛇足なのを知っている必要もあるでしょう。
単純さは、知ることに始まると言える。

でも、ここまででは何故「より単純に」の方向が演技に求められるのか、まだ分からないですね。
単純な演技の良いところは何か?

簡単に言えば、何より単純なほど判りやすくなる、ということだと思う。
しかし注意すべきは、単純な演技が単純な内容(価値)を表現する訳ではないことです。
むしろ逆だ。
観客は(僕は)、単純な演技を通してこそ俳優の豊かな内面を透し見るのである。
複雑さは、それを見えずらくする。

また、俳優の(僕の)方から考えれば、単純さは彼に真実の感覚を与えてくれるといえる。
真実はとは多様な解釈(価値)の可能なものだが、彼の役を理解するのを助けてくれる。

こうした観客/俳優の経験に照らして、
演技精神に「より単純に」の方向性が承認される。

と、したい。

では、演技精神は、さらにドコヘと向かうべきか?
それは次週と致します。

ペンギン

つぶやき6

「よりより
よりより」

先週のつぶやきは、コレ。
スタニスラフスキーの「四つのより」です。
劇場階段に常に掲示されているので、今さらって感じですが、
「より単純に
より軽く
より高く
より陽気に」
というヤツですね。

あーあ、つぶやいてシマッタよ。
ザ・極意。

すべてがココに収斂される。
私達の目指す演技(演劇)が、たどるべき過程であり、
迷ったら立戻る言葉です。

けどなぁ、迷ってばかりの僕には、ありがたーい指針といえますが…
一体ナンド立戻れば済むのやら、否、何度でも!
そう、たとい、いかな名優も立戻るはず。
何度でもいいのだ、必要ならば。
立戻れることが大事。
ザ・極意。

さてしかし、何て事もなさげな「四つのより」が、
なぜ、それほど大きく、また深みある言葉なのか?

俳優ではない皆さんには、どう聞こえるんだろう。
僕には、少なからぬインパクトが、よく分からぬままに、ある。

この言葉には、ある方向性が示されている。
ということは、分かる。
その道は、ドコヘ続いているんだろうか?

次週、よく分からぬままに、
僕の場所から、その道をたどってみたい。

ペンギン

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