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アートサロン

アートサロンのレポートを書かなくちゃなと思いつつ、日がたってしまった。

今回もたくさんのご参加ありがとうございました。

いやぁ、白熱した議論がかわされたのでありました。

本当なら、全体の流れを細かくレポートしたいのですが、何せいろんな話が飛び出して、どれも面白く、圧倒されて、書ききれないし、書けない。

とりあえず、僕の興味に沿って追えるだけ追い、メモ書き程度に感じたことなど書いてみたいと思います。

まず、テーマがえらいこっちゃ。
「200年後の未来のために」
ですもの。

始めに、鎌田さんが、未来には悲観的にならざるを得ない、と述べたのに対し、アニシモフさんが、私は人間の意識の成長を信じるから楽観的だと答えます。
そして、インテリゲンチアは、その成長を導く義務がある、みたいなことを言います。

すると、ランディさんは、意識って言われてもなぁ、と言う。
ランさんは、ワーニャ伯父さんを観て、そのどーしょーもない人間たちの生活に慰められた、と言っていて、ここからは私見ですが、たぶんランさんの場合、100年前の人間の生きざまに慰められる自分がいるなら、いまここで自分が深く生きること、それが自ずから未来のためになっていく、という希望の持ち方なんだろうと思った。たぶんですけど。

鎌さんは、インテリがそもそも信用ならない(少なくとも日本では文化的経験としてその理由がある)と言い、知性よりも身体性の重要をおっしゃった。

アニさんは、ロシア語ではインテリと学歴は関係なく、社会のために活動する人をインテリと呼びますと説明し、意識にとって知性の考えは誤るが、こころの考えは誤らない、ということを述べていた。

ここまで、ごく部分的な抜粋ですが、このあたりの議論を聞いていて、思ったことがあります。

日本のインテリは、そのはしくれに僕をも含め、信じることに慎重だ、いや臆病だ、ということです。
アニさんは、まあロシア人といっても特殊な部類の人間かもしれませんが、信じる、という言葉を公に対して素直に口にする。
一方、鎌さんもランさんも、信じるという言葉を使わずに何かを信じようとしている、みたいな矛盾を抱えているように思えた。
だから例えば、身体性というモチーフなどが出てくると思うのですが、でも僕にもこれはよく分かる。そこには、やっぱり日本的な理由があるからです。

しかし、次のことが僕にはよく分からない。

こころを信じることと、身体性の獲得、ふたつはどう同じでどう違うのか?
身体にこころが宿るのだから、やはりふたつのことは触れ合っているはずだ。
けれど、全く異なる発想とも思える。
アニさんは、こころを信じることで未来を夢見るが、身体性から未来を夢見ることは出きるか。
あるいは、そもそもそんな必要なんてないのか。
分からない。

でも確かなことは、僕はやっぱり、こころを信じてみたい、と思っている。
こころのない世界なら生きていたくはない。
誰だってそう思っているんじゃないだろうか。

だから僕は、俳優の仕事を通じて、こころを証明したいと思うんです。
しかし、これ自体は、それほど難しいことじゃないです。
重要なのは、このことによって、信じるという言葉が、公の言葉として回復することなんだ、
そんなことを考えたのでありました。

byペンギン
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ランディとノーヴィ

来週の4/22(日)に東京ノーヴイ・レパートリーシアター、第3回アートサロンを行います。

東京ノーヴイ・レパートリーシアターのチラシやホームページでご存知かと思いますが、今回は、前回のシンポジウムのパネリスト、宗教哲学者であり神道ソングライター!?トニーこと鎌田東二さん(シンポジウムで石笛吹いてくださった方です。インスピレーション溢れまくりのすごい人)と、その紹介で、作家の田口ランディさんを招き、東京ノーヴイ・レパートリーシアター演出家アニシモフを交えお話していただく予定です。

僕は、ランディさんの書くものが好きなので、いまから楽しみにしています。

以下、ついでに勝手ながらも、僕がランディさんをどう読んでいるか書いてみようと思う。

僕は、俳優としてこころが閉じてるなぁと自分で感じるようなときに、どうもランディさんの文章に触れたくなる。俳優として(つまりは人間としてだけど)のこころの調律に、その文章は効く。

なんだか安心するんですね。マトモすぎるほどマトモな感受性がそこにあることに。

ランディさんは、オカルトな分野にも興味をもって書かれているので、そう言うと変に聞こえるかもしれないけれど、そのマトモさは、でも常識的ってことじゃない、未知なるものへのベクトル(志向)をもつゆえのマトモさです。

世界は未知なのだということ。それが本当だし、だからこそ世界は美しく、僕は自由でさえあるのだ。だから大丈夫。そう思える。

ところで、このマトモだという感想は、僕がはじめて東京ノーヴイ・レパートリーシアターの「どん底で」を観たときの感想と実は同じです。

そのころ俳優を続けようか迷っていた僕は、「どん底で」を観て思ったものです。
なんてマトモなんだ、と。
やっぱりでもそれは常識的ってわけじゃなかった。そこに、こころがある、そういうマトモさだった。それは、ありそうでいて、なかなかあり得ない芝居に僕には思えた。帰り道、俳優も捨てたもんじゃないな、とつぶやいた。
そして、僕はいま東京ノーヴイ・レパートリーシアターにいる。めでたしめでたし。

それはともかく、つまりランディさんの書くものとノーヴイの作品は、僕のなかで、マトモという言葉とともに印象を同じくしています。
それらは、世界には未知あるいはこころがあると教えてくれる。

そういう作家さんとアニシモフの組み合わせは、僕にはとても興味深いわけです。だから、「かもめ」のトリゴーリンに対するニーナ(小娘)みたいにいまから心躍らせている次第なのです。

皆さん、ご予約はお早めに。
http://www.tokyo-novyi.com/htm/events.html#アートサロン

 byペンギン
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