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深いセンチメンタル/K0124

1/24(木)の夜、東京ノーヴィレパートリーシアターの「かもめ」を観た。
開演前、僕は居眠りをしていた。声がきこえ、目をひらくと、芝居はもう始まっている。ここち良い夢が、そのまま展開されていくようだった。。。

この日の「かもめ」はすばらしかった。
好ましい演技。楽しくて真剣で軽やかで滑稽で生き生きしていた。僕は彼らを好きになった。
でも、話はとても悲しいんですね。「あっちでも恋、こっちでも恋」だけど、誰もが恋愛に挫折している。苦い苦い。

そして物語は第4幕、ぼろ切れのような若者ふたりを迎え入れる。
ニーナとトレープレフ。
なんて最高に美しいシーンが生まれたことか。
このシーンは、ある時間性(想えば遠くに来たもんだ的な)のうえに成立していますが、それは一方のニーナに感傷を、一方のトレープレフに絶望をもたらしているように見える。
それは、「自分の使命」を見つけた者とそうでない者との僅かで決定的な明暗です。

つまり、ふたりは同じく挫折の悲しみのなかにいますが、次なる希望(使命)を掴んだニーナにだけ感傷が可能になっている。逆にトレープレフはここで決して感傷しない。彼は希望もなく感傷にふけっていられるほど愚劣ではなかった。

ところで、僕が今回書いてみたいのは(やっと本題だ)、この感傷についてです。
感傷が美しいのは稀である。しかし、僕はニーナのそれを美しいと思った。なぜか?

僕自身がなにか感傷的だったから、僕はまったく感応してしまったのか、まあそれもあったりする。しかし何より、その「深さ」(挫折、悲しみ、不幸といったものの大きさに比例して、感傷は「深く」やってくる)に僕は動かされてしまったのだと思う。
舞台が観客の心を癒すとすれば、それは(生活における)感情の「深さ」によります。
それは特別なシーンに限らず、どんな瞬間にも可能な「深さ」です。
もう一言いえば、希望や恋愛への超越的欲望の「大きさ」がもつ眩しさより、地上的感情の「深さ」がもつ温かさが今日の芸術には求められてはいまいか、僕にはいまそんなふうに思えます。
トレープレフの結末にはやりきれないものがありますが、それでも、全体の印象は温かい公演でした。いい夢みせてもらったぜいっ!


byペンギン
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あとは沈黙 SO0111

1/11(木)の夜、「曾根崎心中」を観劇しました。

あまり、うまくいかなかった公演じゃないだろうか。それは本当に残念なことだけど、無責任な観客のひとり(?)として、そう思いました。

ところどころで真面目過ぎ、ところどころで肩に力が入り過ぎているようでした。
まあ、それでも見応えのある演技もあるにはあって、そんなところでは俳優の真実の心が表現されていて唸らされたりもするんですが、そう関心することと作品に心を動かされることとは別物なんですね。。。あとは沈黙。

ああ、僕等はフィクションのなかに生きよう。
フィクションの力を手にいれよう。
そいつで現実を逆照射するんだ。
その光に照らされて、世界はその姿を、その意味を、わずかながらも変えるのだ。

ところで僕等には、
どんなフィクションに到達可能なのか?


byペンギン
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