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曾根崎観劇記12.14

12/14(木)の昼、「曾根崎心中」を観ました。
この演目は、心中するお初と徳兵衛が、それぞれトリプルキャストになっていて、つまり3組のパターンを観ることが出来ます。
そして、良いのか悪いのか、それぞれで全く違った芝居になるので、そこが面白いといえば面白い。

さて今回は、串田・安部の組でした。この組の良さは「子供らしさ」にありますが、それがまた作品をよく生かすことを教えていました。

思えば、東京ノーヴィ第二期で、私がはじめて観た「曾根崎心中」もこの組だったのですが、その時とは、ずいぶん違った印象を受けました。
第二期で私がみたのは、死についての物語だった。
死の、チリチリするよな肌触り。
いわく直視ならない出来事。そんなふうに覚えている。

しかし、今日みたのは、あれは子供の遊び。死さえ子供らしい何かのイタズラのように、あっけなく掴まれてしまう。その命の軽さ、、、
この愚かしさは何だろう?

もし、そう思われた方は、最後に、二人が何のために死んでいくかを問うてみて下さい。
きっと、愚かしさが愚かしさのままに「ひっくりかえる」のを感じるでしょう。
そこに何がみえますか?

作品とは、変われば変わるものですね。
この日の公演は、一人一人の好演のおかげですが、作品の成長に感心させられました。


by見習い職人
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桜の園観劇記12.14 

12/14(木)の夜、「桜の園(劇団京)」を観ました。
なんて不恰好な愛らしい「桜の園」だろうと思いました。
ある役者によれば、この作品が演っていて一番ムズカシイ、ワカラナイそうである。

確かに、ちょっとした加減で、たちまち退屈な上演になる。たぶん必要なのは、「上手さ」ではないのである。
しかし、これは東京ノーヴィ全体にいえますが、私たちは、いわゆる「上手い」俳優の集まりではありません。それは、一作品観ればわかる。
もちろん、上手くあってしかるべき(技術への努力がもっとあるべき)ですが、いまのところ、私たちが手にしている最良のものは「安定を求めない力」だと思います。

もし、この日の「桜の園」が面白かったとすれば(とても素敵でした!)、まさに理由はそこにあった。ワカラナイままにも生きて、進んでみる意志。むしろ下手くそを自分に促すような元気さ。

その結果は、なんとも不恰好な芝居ですが、この形のわるいトマトの何て美味いことでしょう。
観賞してるより食べ(参加し)たくなる。
そんな雰囲気を与えてくれる公演でした。


by見習い職人

かもめ観劇記

12/10(日)の昼、「かもめ」を観ました。
さて、私がここで書こうと試みているのは、私にとってその上演はどうだったか、という個人的な演劇体験です。

その上で率直に書くべきだろうから書きますが、
この日の公演からは、作品の声が私に聞こえて来なかった。
そして、それがどんな理由によるのか今もよくわからないでいます。
というのも退屈だったわけではないから。
個々の俳優は魅力的だったし、私には面白かった。

そこで、とにかく考えてみたのがこんな理由。
1.個々の演技に目がいって作品の主旋律を見失った(まあ奇妙な言い方ですが)。
2.俳優が新しい舞台セットに馴染んでないため?(なんか窮屈そうでした)
3.そもそも私が作品を観よう(聴こう)としてなかった。

どれも腑に落ちません。しかし3.の理由は、恥ずかしながら私が何も求めず、つかみどころのない生活をしていることの告白でもあります。
ここに思い当たっている以上、つまりはここが本当かもしれませんね。

何だか今になって、
「真剣なものだけが美しい」(ドールン)という台詞が胸に痛いです。
それは私の欲求を刺激して、私を少し目覚ませます。


by見習い職人

どん底で観劇記12.1

12/1(金)の夜、「どん底で」を観ました。
面白かった。

名場面の連続のような作品の中で、いま新しく、ここでの演技が生まれている。
スゴイ事だと思います。

さて今日は、私の大好きなシーンを紹介します。
三幕、ルカーじいさんの語る「二人の泥棒」、そして「真実の国」の(ホラ)話。
ルカー役を佐藤誠司といいますが、この人は天才かと思いますね。
その証拠(?)に、何度聞いてもオモシロイんです。
あるいは、私が単純でおバカ(可能性あり)だからか、もちろん、聞く相手役も巧いんでしょうが、まるで古典落語のような味わいがあります。劇中盤のクールダウン、そして嵐の前の、のどかなシーンです。

ということで、もし誠司さんがコレを読んで、次回ヤり過ぎないことを祈りつつ。

次回「どん底で」は、12/7(木)13:00~です。

by見習い職人

ワーニャ観劇記11.30

11/30(木)昼、「ワーニャ伯父さん」を観劇しました。
この日の収穫は、最後のソーニャの台詞が私に、ちょっと分かった、ということです。

作品最後の台詞には、作品の意味も込められているはずだから、それをどう伝えるかは大事なコトだ、とはよく聞く意見です。
私はノーヴィ作品として五、六回はこの作品を観ていますが、実のところ、いつもこの台詞を上手く納得できなかった。

もちろん私の方に、台詞を受け取る準備がなかったということもあったでしょう。

ですが今回は、ちょっと分かった、のです。
最後、そこに何か、慰みを感じ取ったのです。
このソーニャの慰みは、それまでのワーニャの届けて寄こすヒトツの声「人生の取り返しのつかなさ」に対する返答として、そのようなものとして私の心に沁みた。

演劇は、言葉にならないものを表現するための芸術です。
だから、頭でなく心で分かる時、そこに幸福な演劇体験があります。

さて、次回
「ワーニャ伯父さん」は、12/7(木)19:00~です。

by見習い職人
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