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曾根崎心中考

東京ノーヴイ・レパートリーシアターの第7シーズンにむかって、
だんだんと忙しくなってまいりました。

最初の企画はもう始動しています。



鎌倉で演劇を「開く」シリーズ Vol.2
第5回鎌倉演劇祭参加作品
『曾根崎心中』妙本寺公演

http://www.tokyo-novyi.com/japanese/bosyu.html

これにちなんで、ツイッター(tyler96i)でつぶやいたのを転載します。

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曾根崎心中考①永遠の愛なんて誰も信じない。もちろん、それは存在しない。だが仮に「愛」が在るとすれば、それは「永遠」に違いない、と人は信じているのである。そして、もちろん、その通りだろう。愛の永遠。

曾根崎心中考②社会生活にとって愛とは、つまり悪である。愛の本性は反社会的だからである。人々は、愛を嗅付けるや無意識に迫害してしまう。だが結局のところ、人々の歪んだ欲望は、物語のなかでその愛を見たいと願うのである。

曾根崎心中考③人を愛すると、とたんに彼は自分が弱い存在になったと気付く。変に感じやすく、涙もろくなる。愛は無力なものであり、そもそも彼自身が愛の前で無力である。愛はただ愛でしかない。愛がすべてである事の寄辺なさ。…巷では愛は強しと言うが、ここで描かれる真実は少し違う。

曾根崎心中考④愛は又、愚かなものである。それ故に、愛は子供心の領分である。「心中」という行為も、まるで何かのイタズラのように掴まれるとき(その様に表現されるとき)、この心中という行為の愚かしさが愚かしさのままに“ひっくり返る”瞬間がある。恐ろしい無邪気さのなかで…。

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ツイッターだと、言葉足らずになりがちですが、これはこれで、ここでも特に補足はしません。
ただ、一つだけ言えば、上記はあくまで東京ノーヴイの公演をみた僕の印象をもとにつぶやいています。

コミュニケーションツールとしては利用していませんが、
何かを考えるキッカケ(とりあえず言葉にしてみる)のツールとしてツイッターは手軽で良いですね。
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元旦の太陽

明けましておめでとうございます。
伝説の一年の幕明けです。

昨日、元旦の朝に、
スゴいものを見ました。

井の頭公園の池の上へ、
霞みがかった、白い、大きな、そして強烈な太陽が昇っていました。

その輝きが池に反射して、
空と水面の二つの太陽が盛大に光を放っている。

僕は浴びるようにそれを受ける。

ただ、受けている…

眩しくて、目も開けていられないのに、われを失って、立っていました。

二つの太陽が美しかった、という話。

ペンギン

はむれっとメモ

東京ノーヴイの「ハムレット」が誕生して、二ヶ月程たった。
僕は、12月に一度だけ観劇をさせてもらっている。
いまさらだが、その時の感想をメモしておきたい。

観ていて、まずやって来た印象は、映画的だということ。
映画といっても、僕が連想したのは70年後半から80年代にかけて?の悪夢感の漂うヨーロッパ映画である。
今思えば、映画的なことより、むしろその「悪夢感」的なことの方に何かを感じたのだろう。

「夢の感覚」へのアプローチは、前作「銀河鉄道の夜」でも部分的に試されていたが、
それが全面に、作品を覆って、ひとつの世界を作っていた。
普通、「夢の感覚(世界)」では心が日常とは別様の在り方・働きをしているものだが、その領域だけで、はじめて見えてくる心もあるのかも知れない。
心をテーマとする僕らの劇団(の俳優)にとっては、興味深い対象領域だと思う。

次に、というか、観終わって感じたこと。
この「ハムレット」が、何を語ろうとしているのか、今のところは分からない。
だが全体として、俳優達はよく「生き延びて」いたようだ。
同じ俳優として、敬意を持った。

俳優達は、舞台の上で能らしき所作様式を「強制」されている。
この所作が、僕に「夢の感覚」を感じさせている原因なのだが、ここで俳優達は明らかに困難にぶつかっている。
それは彼らが得意として来た人間的な演技を封じて、彼らをして身体的に「人形」に徹しさせ、彼らの心を抑圧しているのは想像に難くない。

演出上としては、俳優達が所作様式を守ることで、「夢の感覚」の効果を上手く出していたと思う。
よく知られるように、夢のなかでは様々な意味が圧縮されたイメージで表象されたり、時間が存在しないなどするが、能の所作様式がすでに圧縮された表現であり、これを守る俳優達を夢のなかの存在者に仕立てていた。

しかし重要なのは演出効果では、ない。

「ハムレット」とは何か?と聞かれて、「自分自身に打ち勝つことだ」と演出家アニシモフは答えている。
僕は、ほとんど稽古には参加出来なかったので真意は分からないが、だからおそらく能の所作様式は、演出家が俳優達に「あえて」与えた枷なのではないか。
枷が枷でなければ意味がないようなもの。
それで彼らが自分自身を非人間的に抑圧し、それと格闘し打ち勝つことが期待されるようなもの。
そんな風に思えるのだ。

この意味で言うなら、僕が公演を観たかぎりでは、俳優達は何とか「打ち勝って」いた。
つまり、身体的な様式性の抑圧のなかで、辛うじて彼らの心は人間として「生き延びて」いた。
それは僕に、酸素が高圧力下で液体に変わるのを思わせる。
彼らの心もまた、辛うじて存在レベルを変えることで「生き延びる」のである。

最後に「作法」について。
以上のこととも関係しているが「ハムレット」においては、東京ノーウ゛イの俳優達にとって「新しい作法」が求められているようだ。
僕達は、いままでスタニスラフスキー・システムを学びつつ、いわばチェーホフの作法というべきものを身に付けてきた。
だがスタニスラフスキーの大前提は変わらないのだが、やはりチェーホフの作法ではシェイクスピアは演れないのである。
「あなた方は、まだチェーホフを演ろうとしている。しかし、これはシェイクスピアなんです!」とは、何度か参加した稽古で言われていた言葉である。

「作法」とは何か?
僕が個人的に使っている言葉に過ぎないが、ここで言う作法とは、ある作家の作風を表現するための、俳優の「心」の持ちよう(準備・条件)、要するに作品への対し方である。

例えば、チェーホフの作法を僕なりに表現するなら「自分の心と和解すること」である。
これは奇妙な話なのだが、俳優は俳優であるがために自分の心と不仲だったりする。
だが私達の劇団でチェーホフを演じるには「あらかじめ」自分の心とは和解している必要がある(と僕は思っている)のである。

もちろん、近松には近松への、賢治には賢治への作法があるわけだが、ハムレット(シェイクスピア)の作法は、それまでと性格が大きく違うように思える。
僕に言わせれば、上記の「自分自身に打ち勝つこと」こそハムレットの作法なのだが、ここには苦しみ(抑圧)がなければならないからだ。
(心と和解することなどは、たとえ困難ではあっても気分のいいものだ)
「ハムレット」の俳優達は、自ら勝つ為に自ら苦しみ続けなければならない。
願わくば、彼らが「正確に」苦しみ続けますよう。
そのことで、勝利への情熱が増しますよう。

変態の世界である。

ペンギン

アフタートーク「宮沢賢治は銀河人」

12/21(日)「銀河鉄道の夜」のアフタートークでお聴きしたお話を、簡単にレポートしたいと思います。

東京ノーウ゛イレパートリーシアターでは、
「日本人の心の晩御飯」
~“すきとほったたべもの”を召し上がれ~
という企画で、毎週日曜3/29(日)まで
「曾根崎心中」
「銀河鉄道の夜」
の二作品を連続上演していますが、
今回のアフタートークは第1回目(全8回)のパネラーとして、新田満さんをお招きしました。

新田さんは、岩手県(賢治の生きた地ですね)を拠点に様々な演劇の活動をされていて、御自身でも宮沢賢治作品の演出を多く手掛けていらっしゃるだけあり、分りやすく、また深いお話をお聴きすることが出来ました。

「わたしは学者ではありませんし、作品はどう受け止められても自由なものだと思います。だから今日は、賢治に親しんでいる、いちファンとして、そのわたしが、銀河鉄道の夜をどう受け止めているかお話できれば良いかなと思っています。」

と、始まったお話は、「銀河鉄道の夜」に結晶する“考え”を見やすくするために、それまでの賢治作品を丁寧に辿り、また、農民芸術概論から法華経、妹トシの存在の事まで短い時間ながら、まさに“賢治概論”のようでした。
面白かったのは、

「賢治の作品は、よく分からないんですね。電信柱がしゃべっていたり、ドングリが会議していたりね。こんなこと書く奴は、当時から変人扱いですよ。賢治には、頭で考えても分からない表現がたくさんあります。わたしらは、ただ、賢治にはそう“みえた”んだなと思うしかない。」

と、色々なモノの間の交流を描く賢治に、アミニズムまたは平等の感覚を指摘されていて、なるほど、こういうところが詩人というものかと思ったりしました。

続いて、「銀河鉄道の夜」自体を詳しく辿って行きましたが、ここでも「賢治はあの世(四次元)のことが見えたのだろう。そして、その世界の法則を描き出しているのではないか。」とおっしゃっていて、とても興味深かったのは、それが私達の作品理解と表現は違っても、ほとんど重なっていたことです。
だからでしょうか、こんな言葉を頂きました。

「今日、皆さんの観た舞台は、わたしのお話した作品理解とは、少し違うところもあるかも知れません。
けれども、わたしは銀河鉄道の夜の舞台作品を幾つも観ていますが、今日の舞台は、その中でも最も丁寧に作られた良い舞台です。」

ちなみに、新田さんには企画者から、是非アフタートークは岩手弁で、とお願いしていました。
「そう言われっとナンだかうまく方言が出て来ねえなぁ。もう充分訛ってっとは思うけど。」と言いつつ、新田さん!ありがとうございました。
そういえば、こんな話もされてましたね。
「演出家のアニシモフさんはロシア人ですが、岩手とロシアとは、奇妙な共通項があるんです。
ロシア語で「はい(イエス)」は「ダァ」。
岩手弁で「はい(イエス)」は、「んだぁ!」。」

……オアトが宜しいようで。
以上、レポートとさせて頂きます。

制作部 N・Y

カイ公演を終えて

シアターカイ公演を終えました。
ご来場くださいました皆様、ありがとうございました!
本当に本当に!

こうした外劇場で公演すると、自分達のことがよく分ります。
僕らはアンバランスな劇団だなぁと思いました。
ある部分では、僕らは演劇を超えている。また、ある部分では演劇にすら達していない。
変なの~!
もちろん、バランスは正さなければなりません。

また、お客様の反応も賛否両論でしたね。
そして、それぞれに正論。
好きな人は好き。
嫌いな人は嫌い。
いつものことですが、でも、これは良い傾向ですね。

今回の外公演も、多くの勉強をさせていただきました。
経験でしか得られないことがあるのです。
僕らには、進むべき道がありますが、この歩みを応援して下さっている、又、見守って下さっている皆様に感謝したいと思います。

さて、ひっさしぶりに観劇記でも書こうとしたけど、やめます。
「三人姉妹」をモニター越しに観ていて、幾つかの言葉が浮かんで来ました。
でも、その言葉は観劇記ではなく詩の形式を要求していました。
時々、こういうことがある。
それは啓示みたいなもので、ある種の難問(謎)としてやって来る。
すると僕は詩という方程式で、何とかそれに答え(定着させ)なければならないハメになる。
意味不明かも知れませんが、今回の責任は「三人姉妹」にあるので、一応ここに載せます。

………

「夢みるにんげん」

きみの語らない夢は
その目がぜんぶ教えてくれる
ぼくは人間がすきだ
うしなわれないでいてほしい

あざやかな夢をみるなら
ぼくもまた生きている
ぼくは人間がすきだ
うしなわれないでいてほしい

広大なよるのなかの
小さなひかり
にんげんはにんげんの夢をみる

無口なものたちのあいだで
それぞれの夜に
にんげんはそっと夢をみている

…………

形式は、結果的にソネット/十四行詩になりました。
ちなみに、詩をつくる作業とウチの劇団での役作りの作業というのは、とっても似ています。
たぶん、他のメンバーも同じでしょう。その辺は機会があったら書きたいと思います。。

ペンギン

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