揺れる枝葉
高い木がある。
彼女の何倍もの頭上で、
その枝葉が揺れている。
彼女からは見えないその場所で。
僕の愛と呼ぶものを、
あなたは無為に打捨てて、
「たとえば私のために笑ってみせて」と、
僕を途方に暮れさせる。
揺れる枝葉。
僕からは見えないその場所で。
泣き言は届かないその場所で。
僕は走る。
秘密よりはやく自分よりはやく僕は走る。
いま諦める、すべて。
………
ペンギン
彼女の何倍もの頭上で、
その枝葉が揺れている。
彼女からは見えないその場所で。
僕の愛と呼ぶものを、
あなたは無為に打捨てて、
「たとえば私のために笑ってみせて」と、
僕を途方に暮れさせる。
揺れる枝葉。
僕からは見えないその場所で。
泣き言は届かないその場所で。
僕は走る。
秘密よりはやく自分よりはやく僕は走る。
いま諦める、すべて。
………
ペンギン
妖精ウンコ自由
「人という不自由のなかで、
妖精よ、人はとても自由だ」
………………………
「今日はどんなゲームを始めるつもり?」
と妖精が、目覚めた僕に言った。
その美しい妖精は、それから、
僕を食べてしまった。
恐ろしい獰猛な彼女にあたまから喰われ、
その腹のなかで、僕は溶けた。
可哀相な僕の純度120%のからだは溶けてしまった。
と夢が破れた。
僕はまだ人間の形をしていて、
妖精はこの世に存在しない。
一日はあいかわらずで、
人々はそぞろ歩き、
蔑んでみたり、
愛してみたり、
徒党を組んでみたり、
偉そうにしてみたり。
僕はもう一度目を閉じる。
彼女の無慈悲な喜びのあと、そこに僕は存在しない。
と未知が微笑む。
妖精に喰われたウンコの僕。
くすぐったい朝日が、
僕をこの一日へと追い立てる。
人という不自由のなかで、妖精よ、人はとても自由だ。
…………
ペンギン
妖精よ、人はとても自由だ」
………………………
「今日はどんなゲームを始めるつもり?」
と妖精が、目覚めた僕に言った。
その美しい妖精は、それから、
僕を食べてしまった。
恐ろしい獰猛な彼女にあたまから喰われ、
その腹のなかで、僕は溶けた。
可哀相な僕の純度120%のからだは溶けてしまった。
と夢が破れた。
僕はまだ人間の形をしていて、
妖精はこの世に存在しない。
一日はあいかわらずで、
人々はそぞろ歩き、
蔑んでみたり、
愛してみたり、
徒党を組んでみたり、
偉そうにしてみたり。
僕はもう一度目を閉じる。
彼女の無慈悲な喜びのあと、そこに僕は存在しない。
と未知が微笑む。
妖精に喰われたウンコの僕。
くすぐったい朝日が、
僕をこの一日へと追い立てる。
人という不自由のなかで、妖精よ、人はとても自由だ。
…………
ペンギン
はむれっとメモ
東京ノーヴイの「ハムレット」が誕生して、二ヶ月程たった。
僕は、12月に一度だけ観劇をさせてもらっている。
いまさらだが、その時の感想をメモしておきたい。
観ていて、まずやって来た印象は、映画的だということ。
映画といっても、僕が連想したのは70年後半から80年代にかけて?の悪夢感の漂うヨーロッパ映画である。
今思えば、映画的なことより、むしろその「悪夢感」的なことの方に何かを感じたのだろう。
「夢の感覚」へのアプローチは、前作「銀河鉄道の夜」でも部分的に試されていたが、
それが全面に、作品を覆って、ひとつの世界を作っていた。
普通、「夢の感覚(世界)」では心が日常とは別様の在り方・働きをしているものだが、その領域だけで、はじめて見えてくる心もあるのかも知れない。
心をテーマとする僕らの劇団(の俳優)にとっては、興味深い対象領域だと思う。
次に、というか、観終わって感じたこと。
この「ハムレット」が、何を語ろうとしているのか、今のところは分からない。
だが全体として、俳優達はよく「生き延びて」いたようだ。
同じ俳優として、敬意を持った。
俳優達は、舞台の上で能らしき所作様式を「強制」されている。
この所作が、僕に「夢の感覚」を感じさせている原因なのだが、ここで俳優達は明らかに困難にぶつかっている。
それは彼らが得意として来た人間的な演技を封じて、彼らをして身体的に「人形」に徹しさせ、彼らの心を抑圧しているのは想像に難くない。
演出上としては、俳優達が所作様式を守ることで、「夢の感覚」の効果を上手く出していたと思う。
よく知られるように、夢のなかでは様々な意味が圧縮されたイメージで表象されたり、時間が存在しないなどするが、能の所作様式がすでに圧縮された表現であり、これを守る俳優達を夢のなかの存在者に仕立てていた。
しかし重要なのは演出効果では、ない。
「ハムレット」とは何か?と聞かれて、「自分自身に打ち勝つことだ」と演出家アニシモフは答えている。
僕は、ほとんど稽古には参加出来なかったので真意は分からないが、だからおそらく能の所作様式は、演出家が俳優達に「あえて」与えた枷なのではないか。
枷が枷でなければ意味がないようなもの。
それで彼らが自分自身を非人間的に抑圧し、それと格闘し打ち勝つことが期待されるようなもの。
そんな風に思えるのだ。
この意味で言うなら、僕が公演を観たかぎりでは、俳優達は何とか「打ち勝って」いた。
つまり、身体的な様式性の抑圧のなかで、辛うじて彼らの心は人間として「生き延びて」いた。
それは僕に、酸素が高圧力下で液体に変わるのを思わせる。
彼らの心もまた、辛うじて存在レベルを変えることで「生き延びる」のである。
最後に「作法」について。
以上のこととも関係しているが「ハムレット」においては、東京ノーウ゛イの俳優達にとって「新しい作法」が求められているようだ。
僕達は、いままでスタニスラフスキー・システムを学びつつ、いわばチェーホフの作法というべきものを身に付けてきた。
だがスタニスラフスキーの大前提は変わらないのだが、やはりチェーホフの作法ではシェイクスピアは演れないのである。
「あなた方は、まだチェーホフを演ろうとしている。しかし、これはシェイクスピアなんです!」とは、何度か参加した稽古で言われていた言葉である。
「作法」とは何か?
僕が個人的に使っている言葉に過ぎないが、ここで言う作法とは、ある作家の作風を表現するための、俳優の「心」の持ちよう(準備・条件)、要するに作品への対し方である。
例えば、チェーホフの作法を僕なりに表現するなら「自分の心と和解すること」である。
これは奇妙な話なのだが、俳優は俳優であるがために自分の心と不仲だったりする。
だが私達の劇団でチェーホフを演じるには「あらかじめ」自分の心とは和解している必要がある(と僕は思っている)のである。
もちろん、近松には近松への、賢治には賢治への作法があるわけだが、ハムレット(シェイクスピア)の作法は、それまでと性格が大きく違うように思える。
僕に言わせれば、上記の「自分自身に打ち勝つこと」こそハムレットの作法なのだが、ここには苦しみ(抑圧)がなければならないからだ。
(心と和解することなどは、たとえ困難ではあっても気分のいいものだ)
「ハムレット」の俳優達は、自ら勝つ為に自ら苦しみ続けなければならない。
願わくば、彼らが「正確に」苦しみ続けますよう。
そのことで、勝利への情熱が増しますよう。
変態の世界である。
ペンギン
僕は、12月に一度だけ観劇をさせてもらっている。
いまさらだが、その時の感想をメモしておきたい。
観ていて、まずやって来た印象は、映画的だということ。
映画といっても、僕が連想したのは70年後半から80年代にかけて?の悪夢感の漂うヨーロッパ映画である。
今思えば、映画的なことより、むしろその「悪夢感」的なことの方に何かを感じたのだろう。
「夢の感覚」へのアプローチは、前作「銀河鉄道の夜」でも部分的に試されていたが、
それが全面に、作品を覆って、ひとつの世界を作っていた。
普通、「夢の感覚(世界)」では心が日常とは別様の在り方・働きをしているものだが、その領域だけで、はじめて見えてくる心もあるのかも知れない。
心をテーマとする僕らの劇団(の俳優)にとっては、興味深い対象領域だと思う。
次に、というか、観終わって感じたこと。
この「ハムレット」が、何を語ろうとしているのか、今のところは分からない。
だが全体として、俳優達はよく「生き延びて」いたようだ。
同じ俳優として、敬意を持った。
俳優達は、舞台の上で能らしき所作様式を「強制」されている。
この所作が、僕に「夢の感覚」を感じさせている原因なのだが、ここで俳優達は明らかに困難にぶつかっている。
それは彼らが得意として来た人間的な演技を封じて、彼らをして身体的に「人形」に徹しさせ、彼らの心を抑圧しているのは想像に難くない。
演出上としては、俳優達が所作様式を守ることで、「夢の感覚」の効果を上手く出していたと思う。
よく知られるように、夢のなかでは様々な意味が圧縮されたイメージで表象されたり、時間が存在しないなどするが、能の所作様式がすでに圧縮された表現であり、これを守る俳優達を夢のなかの存在者に仕立てていた。
しかし重要なのは演出効果では、ない。
「ハムレット」とは何か?と聞かれて、「自分自身に打ち勝つことだ」と演出家アニシモフは答えている。
僕は、ほとんど稽古には参加出来なかったので真意は分からないが、だからおそらく能の所作様式は、演出家が俳優達に「あえて」与えた枷なのではないか。
枷が枷でなければ意味がないようなもの。
それで彼らが自分自身を非人間的に抑圧し、それと格闘し打ち勝つことが期待されるようなもの。
そんな風に思えるのだ。
この意味で言うなら、僕が公演を観たかぎりでは、俳優達は何とか「打ち勝って」いた。
つまり、身体的な様式性の抑圧のなかで、辛うじて彼らの心は人間として「生き延びて」いた。
それは僕に、酸素が高圧力下で液体に変わるのを思わせる。
彼らの心もまた、辛うじて存在レベルを変えることで「生き延びる」のである。
最後に「作法」について。
以上のこととも関係しているが「ハムレット」においては、東京ノーウ゛イの俳優達にとって「新しい作法」が求められているようだ。
僕達は、いままでスタニスラフスキー・システムを学びつつ、いわばチェーホフの作法というべきものを身に付けてきた。
だがスタニスラフスキーの大前提は変わらないのだが、やはりチェーホフの作法ではシェイクスピアは演れないのである。
「あなた方は、まだチェーホフを演ろうとしている。しかし、これはシェイクスピアなんです!」とは、何度か参加した稽古で言われていた言葉である。
「作法」とは何か?
僕が個人的に使っている言葉に過ぎないが、ここで言う作法とは、ある作家の作風を表現するための、俳優の「心」の持ちよう(準備・条件)、要するに作品への対し方である。
例えば、チェーホフの作法を僕なりに表現するなら「自分の心と和解すること」である。
これは奇妙な話なのだが、俳優は俳優であるがために自分の心と不仲だったりする。
だが私達の劇団でチェーホフを演じるには「あらかじめ」自分の心とは和解している必要がある(と僕は思っている)のである。
もちろん、近松には近松への、賢治には賢治への作法があるわけだが、ハムレット(シェイクスピア)の作法は、それまでと性格が大きく違うように思える。
僕に言わせれば、上記の「自分自身に打ち勝つこと」こそハムレットの作法なのだが、ここには苦しみ(抑圧)がなければならないからだ。
(心と和解することなどは、たとえ困難ではあっても気分のいいものだ)
「ハムレット」の俳優達は、自ら勝つ為に自ら苦しみ続けなければならない。
願わくば、彼らが「正確に」苦しみ続けますよう。
そのことで、勝利への情熱が増しますよう。
変態の世界である。
ペンギン
ヴェロニカのはにかみ
ヴェロニカの振る鈴は、
明星の恥じらいであるか。
頭上高く振られる清浄な響きは、
いかなる夜明けを告げんとするか。
ヴェロニカ、お前、はにかむ者よ。そのままに、
ひかりのなかで自らふるえ、歌いなさい。
そして知りなさい。いま慈愛のあめがふり、
お前のももいろの腹に降りそそぐのを。
ヴェロニカの目が戸惑い、また決意するのを見るのは、
隠された手の世界と結ばれるのを知るのは、
それは私の愛ゆえである。
ヴェロニカ、お前、世界をゆらせ。
海をゆらし、森をゆらし、空をゆらし、わたしをゆらせ。
世界はほほえみ、ひとりの乙女は欲っされよ。
………
ペンギン
明星の恥じらいであるか。
頭上高く振られる清浄な響きは、
いかなる夜明けを告げんとするか。
ヴェロニカ、お前、はにかむ者よ。そのままに、
ひかりのなかで自らふるえ、歌いなさい。
そして知りなさい。いま慈愛のあめがふり、
お前のももいろの腹に降りそそぐのを。
ヴェロニカの目が戸惑い、また決意するのを見るのは、
隠された手の世界と結ばれるのを知るのは、
それは私の愛ゆえである。
ヴェロニカ、お前、世界をゆらせ。
海をゆらし、森をゆらし、空をゆらし、わたしをゆらせ。
世界はほほえみ、ひとりの乙女は欲っされよ。
………
ペンギン
異国の朝
朝、目が覚めると果てしなく広がる青空。
そのなかへ広がりゆく私。
吹き抜ける風に遠くまで運ばれて、
消えて還りゆく悲しみ。
世界のどこを探しても悲しみの理由などなかった。
薄明に冷やかに横たわる、
まだ名前のない完璧な世界。
不規則な動きを続ける人々の交通運動。
雲の影。湖が照り返す太陽の光。
真夏の一日が始まる朝の光景。
そこに在って、目に見えるものすべては
私の見知らぬもの達だった。
注意深くなければならなかった。
そして、世界がそういうものならばと、
その不思議さと不気味さとを私は許した。
いま、悲しみの立ち去った朝。
何も知らない異邦人の私に訪れる寂しさ。
この新しい友人が私を世界へと催促する。
はじめから、ひとつひとつを見に行こう。
ゆれるカーテン。白い光。その向こう。
………
ペンギン
そのなかへ広がりゆく私。
吹き抜ける風に遠くまで運ばれて、
消えて還りゆく悲しみ。
世界のどこを探しても悲しみの理由などなかった。
薄明に冷やかに横たわる、
まだ名前のない完璧な世界。
不規則な動きを続ける人々の交通運動。
雲の影。湖が照り返す太陽の光。
真夏の一日が始まる朝の光景。
そこに在って、目に見えるものすべては
私の見知らぬもの達だった。
注意深くなければならなかった。
そして、世界がそういうものならばと、
その不思議さと不気味さとを私は許した。
いま、悲しみの立ち去った朝。
何も知らない異邦人の私に訪れる寂しさ。
この新しい友人が私を世界へと催促する。
はじめから、ひとつひとつを見に行こう。
ゆれるカーテン。白い光。その向こう。
………
ペンギン




